蜂蜜酒
雲夢江氏の莲花坞は、その蓮の花で埋め尽くされる湖や露店で賑わう港が人目を引きがちであるが、実は裏山にも豊かな自然がある。この辺りでは珍しい照葉樹の林には小川が流れ、そこに棲む魚を狙って沢山の鳥たちが遊んでいる。そんな裏山はもちろん、まだ年若い門弟たちにとっては格好の遊び場であった。
江晚吟が宗主となってからだいぶ厳しくなったとはいえ、自然の豊かな中で駆け回れる環境は、他の大世家とは明らかに違う、大らかで解放的な家風を作り出している。
かつてここで育った魏无羡がその傑出した剣の資質にも関わらず詭道の開祖となったことで、おおらかな家風が悪様に言われることも少なくはなかったのだが、それも今は昔。
「思追、なにこれ?」
「これは雲夢江氏から届いた蜂蜜ですね。なんでも門弟の方が大きな蜂の巣を見つけたとかで、お裾分けだそうです」
「へえ。裏山の蜂の巣かあ。懐かしいなあ」
「魏先輩も蜂の巣探したりしたんですか?」
「うん。まだガキの頃、江澄と一緒によく裏山に入り込んでさ、木の、こうウロになってるところがあるだろ?そういうとこに蜂が出入りしてないか見るんだ。それでいっぱい出入りしてるようだったら、穴をこう広げてね。で、蜂が怒って出てくるから江澄が追い払おうとして刺されてさ。追い払わなければ刺されないのに、あいつ何度やっても刺されてたんだよなあ」
魏无羡の子どものころの話はどれも面白い。思追も景儀も目を輝かせて聞いている。
「ところで、これどうすんの?」
「薬に使ったり、後は料理やお菓子にも使わせていただくそうです」
「余らない?」
「魏先輩の分もこちらにありますよ。後で静室にお届けするつもりでした。でもなんかこちらの甕は少し軽いし、中身が薄いのか振ると音がしますね」
「あ、それはそれでいいの。さすが江澄、わかってるな」
おそらく中身は蜂蜜酒である。飲酒厳禁のこの雲深不知処に酒を送りつけてくるとか、江宗主もなかなかにいい度胸である。
蜂蜜酒を作るのに必要なのは蜂蜜と水だけである。後は空気中の菌が勝手に酒にしてくれる。姑蘇の水や気候でうまく作れるかどうかわからなかったので試してみたかったのだが、最初から酒で送られて来ればその必要もない。
雲夢の蜂蜜は蓮の香りがする。その蜂蜜から作られた蜂蜜酒ももちろん淡い蓮の香りである。色々なところで蜂蜜酒を飲んだが、魏无羡は育った土地のこの蜂蜜酒が一番美味しいと思っている。
早速静室に持ち帰ると、夜狩の報告書に目を通していた蓝忘机が顔を上げる。
「江澄から蜂蜜酒もらった」
「蜂蜜酒?」
「莲花坞の裏山で取れた蜂蜜で作ったやつなんだ。懐かしいなあ。そんなに強くないから蓝湛も飲む?」
「まだ日が高い。君も、飲むのなら夕餉の時にしなさい」
「本当にお堅いんだからなあ。じゃあ匂いだけ」
と言って甕の蓋を開けて匂いを嗅ぐ。
「ああいい香り。蓝湛も匂いだけでも」
と無理やり鼻に近づけると、最初は避けようとしていた蓝忘机はふと気づいたように
「初めて会った頃の君の香りだ」
と目を細める。
「はあ?そんなの覚えてるのか」
「私が君のことで忘れたことなど一つもない」
「あのなあ、お前最初の頃俺のことすごくめんどくさいやつだと思ってたろ?」
「今でもめんどくさいとは思っている」
「ふーん。含光君はめんどくさいのが好き、と」
珍しくふふっと笑う蓝忘机の顔を見て、
「あ、認めたな蓝湛。だったらもっと面倒かけてやる」
と、甕を机に置き、両手で蓝忘机の耳を引っ張る。
「君の『面倒をかける』はそういう意味なのか?」
と呆れ顔の蓝忘机に向かって片目の下瞼を下に引っ張って舌を出す。すると蓝忘机はいきなり腕をとって胸元に引き込み、頭を抱き寄せて髪に顔を埋める。
「何だよ蓝湛、いきなり人の匂いを嗅ぐな」
「今の君は私の香の香りだ」
「当たり前だろ、一日中この部屋にいたらすっかりこの香りになるに決まってる」
「でも私の香りとは少し違う」
同じ香をつかっていても、人によって少しずつ香りが異なる。
「さっきわかった。君の香りは、蓮の香りだと」
不思議なことだと思った。少なくとも今のこの身体は莲花坞で育ったわけでもないし、蜂蜜酒をたくさん飲んだわけでもない。
「きっと君の魂魄が蓮の香りなのだろう」
魂魄に香りなんかあるかよ、と思ったものの、何より蓮は神秘的で綺麗な花なので、そう言われるのは悪くないなと思って魏无羡の顔が綻ぶ。
「ところで含光君」
「ん、どうした?」
「この前禁書室で見つけた本によると、とある国では結婚したばかりの夫婦が子作りのために蜂蜜酒を飲むって書いてあったんだけど、本当かなあ」
「君は試してみたいのか?」
「飲んで子ども産めるようになったら面白いかもな」
「流石にそれはない。それに、『子供が産める』ではなく『子作りに励む』だ」
「おい待て蓝湛、お前もあれ読んだの?」
「一応」
「何だ知ってたのかよ。つまんね」
「私は君の好きなものにそんな効用があると知れてとても嬉しいのだが?」
しれっと言われてしまうと返す言葉がない。
「わかったわかった。お前にこれ以上励まれてもこっちの身体が持たないからお前には飲ませない」
そう言って蜂蜜酒の入った甕を自分のものが置かれた一角ーー白紙の呪符や護符、試作中の謎の道具やそれを作るための小さな鑿や鑽などがごちゃごちゃと置かれているーーにおいた。
夕餉の後、魏无羡は蜂蜜酒の甕からちびちびと酒器に注いで飲み始めた。
「お前にはやらないからな」
と言ってまた舌を出す。やれやれという顔の蓝忘机は
「君に贈られたものだ。君の好きにすればいい」
と言って、座っている魏无羡の後ろに胡座をかくと、腰を掴んで胡座の中に引き上げ、
「私も、私のものについては私の好きにさせてもらう」
といきなり耳たぶに噛み付く。
「蓝湛、お前いきなりそれは反則だろう」
「嫌なのか?」
「そりゃ嫌ではない、けど、心の準備というものが。それに尻に忘機くんが当たってるんだけど」
「そんなにいい匂いをさせてる君が悪い」
30分後、背後からの乳首と耳への愛撫ですっかりトロトロにされた魏无羡が、
「もう許して含光君、早く挿れてよ」
と懇願する羽目になることをこの時の魏无羡はまだ知らない。