Another Words

突然創作を載せたり載せなかったりします。

罪の重さ

犯した罪は裁かれなければならない。その責をまるで負うことなくこんなふうに死ぬことが許されようはずがない。

彼の罪はあまりに重い。到底彼ひとりの命で償い切れるものではないが、まずは彼にその重さを自覚してもらうことから始めねばならない。でなければ償う意味がないではないか。そのために何が必要なのだろう?

高熱にうなされる薛洋の傍で考える。
「ゆるして…いい子で、いるから。いいこになるから」
薛洋はまるで子どものようなうわ言を漏らす。
「だから、いかないで。そばにいてよ」
子どもの頃の夢か幻覚でも見ているのだろう、そう思った暁星塵は薛洋の額に手を当てる。安心したように
「ああ、道長の手は、冷たくて気持ちいい」
と言った後で、薛洋は朦朧としていた意識を再び手放した。

まさか、私、なのか?

彼が必要としているのはこの暁星塵だというのか?この数ヶ月、彼を殺すために生きてきたのに。それだけが生きる意味だった筈なのに。なのにさっき願ってしまった。天よ、まだこの人を連れていくなと。彼にちゃんと罪を償わせてからだと。

 

いつのまにか夜が明けていたようだ。熱はまだ下がらない。彼が置いて行ったお焼きを齧り、水を飲む。額に乗せていた濡れ手ぬぐいを取り替える。汗を拭いてやる。その時、扉を叩く音がした。

「おーい、阿美、いないのかい?」
阿美、と言う聞き慣れない名前を耳にして、やっと彼の字が成美であることを思い出した。
扉を開いて、そこにいた人に答える。
「すみません。彼は昨日から熱を出していて」
「ああそう言うこと。いやね、毎日まじめに店に来ていたのに、今日は時間になっても来ないから様子を見に来たんだ」
「店、ですか?」
「ああ、うちは義城でも一番人気の米麺屋でね、彼は何ヶ月か前に、急に『なんでもするから雇ってくれ』って現れたんだよ。うちも人手不足で、皿洗いなんかを頼んでいたんだ」
「皿洗い、ですか…」
「ああ、あんたが阿美の言ってた『大事な人』か。目の悪い大事な友人がいるから、その人のためにまじめに働きたいと言ってたんだよ。それだったらうちとしても力になろうってね、余った料理なんかを持って帰ってもらってたんだよ」
「ご迷惑をおかけしてすみません。本人まだ熱が下がらないので、元気になったら必ずお詫びに伺わせます」
「あ、いいよいいよ詫びとか。それよか早く治してまたうちで働いてくれればいいから」

 

手荒れ、持ち帰る料理、朝出掛けて夕方まで戻らないこと、全てが繋がった。まじめに働く。彼は彼なりに償う方法を考えていたのだ。宋嵐を伴っての夜狩も、生きた人間を害するものではなく、妖獣や凶屍を狩る普通の夜狩だった。

一人では到底背負いきれない薛洋の罪を、わずかでも共に背負ってあげたい。彼が罪の重さにつぶれてしまわないように、隣で見守り、支えたい。そんな気持ちが抑えられず湧いてくる。仇を打つのも、彼の元を離れるのも、いつでもできる。今はただ、高熱にうなされているこの少年が早く元の笑顔を取り戻すよう祈るだけだ。

 

結局、熱が下がり意識が正常になるまで更に三日かかったものの、薛洋は無事に生還した。記憶がところどころ曖昧になっているようではあったが。
道長、せっかく縄解いたのになんで出ていかなかった?」
と不思議そうな顔で尋ねられ、暁星塵はこう答えた。

「薛洋、あなたは私が死にかけている人間を置いて逃げ出すような薄情者だと思っていたんですか?」

 

 

血の匂い

その日も薛洋は宋嵐を伴って「夜狩」と称するなにかのために出かけていた。夜半から降り出した雨がやがて雷を伴う豪雨となり、窓から風雨が吹き込む。肌掛け代わりにしていた外衣を身体に巻き付けて、暁星塵は寒さに震えていた。

いったいいつになったら私は仇を討つことができるのだろう。両手の縛めはほどかれ、足の縛めは腰へと位置を変え寝台の周りを立って歩ける程度の余裕のある長さとなったが、この義荘から出ることはできない。霜華はどこかに隠されたままだし、食べるものも身の周りの全ても、薛洋に管理されている。
薛洋の態度は優しかった。時々虫の居所が悪いのか悪態をつくことはあるものの、朝起きるとまず顔を洗う水を桶に汲んで寝台までもってきて、顔を洗い終わると手ぬぐいを差し出し、目を覆う包帯を綺麗に巻き直す。長い時間をかけて丁寧に髪を漉き、どこで手に入れたのかわからないいい香りの油を少し塗って整える。朝餉の支度をして暁星塵がそれを食べる間に、留守中の食事のためのお焼きと水を準備する。それから出かけていって、夕方にはなにかしらの食べ物を持ち帰り、手早く夕餉の支度をする。かつて阿箐と三人で暮らしていたころよりもさらにかいがいしく、それはまるで「尽くす」と呼んでもいいくらいだった。
そして夜狩に出かけない夜はたいてい暁星塵が寝静まったと思ったころに、出かけて早く帰れた日にも、起こさないように指を絡めたり唇を重ねたり、時には髪の匂いを嗅いだりなどしてから、小さな声で名を呼びながらの自慰が始まり、終わった後は必ずもう一度軽く触れるだけの口づけをしてから、なるべく身体が多く触れあうような体勢で眠る。

暁星塵は人の情というものには疎い。抱山散人の元では家族の情というものを知らずに育ち、山を下りてからも宋子琛以外とは親しく付き合うこともなかった。その子琛でさえ、志を同じくする知己ではあったものの、剥き出しの感情をぶつけられたのは唯一白雪閣の惨殺があった時だけだし、それは二人のどちらにとっても良い思い出ではない。そんな暁星塵にとって、薛洋の示すこの態度が一体いかなる感情に基づくものなのかは皆目見当もつかなかった。

そしてそれとともに、自分の感情の変化にもうろたえていた。薛洋のことを憎んでも憎み足りない、必ず亡き者としなければと思いながらも、帰りが遅いと心細く感じ、機嫌よく振舞っているとなぜかほっとする。触れられる手が暖かい、触れられて嬉しいとさえ感じてしまう。

一体自分は何を考えているのか、そんなことを思ううちに、義荘の扉が開き宋嵐が入ってきて、寝台の上に何かをどさっと落とす。普段はこの部屋には入ってこない子琛の気配と、いつもより濃い血の匂い、それも生きた人間の血の匂いに驚いていると、寝台の上に落とされたものが苦しそうな声で言う。
「宋嵐、こいつの縄を切ってから戻れ」
すると拂雪が一閃され、暁星塵の腰の縛めが解かれた。
「薛洋?一体何が…怪我をしているのですか」
「ああ道長、しくじっちまったみたいだ。宋嵐がいなかったらあのままあそこでくたばってるところだった」

「こんな大雨の中を無理に戻らなくても」

「戻らなかったらあんたが死んじまうだろ」

そういうと血だらけの腕で抱きついてきた。

「凄い熱じゃないですか。怪我を見せてください」

「見せてと言われても、道長見えないじゃん」

「見せてというのは言葉のあやです。確認させてください」

そう強く言うと、薛洋は抱きついてきた腕を解いた。そのまま倒れそうになるのを支えて、ゆっくりと寝台に横たえる。

意識は混沌としているようだ。そして薛洋本人の血の匂いに混じり、獣の血の匂いがするのに気がついた。

…これは、食魂獣?本当に夜狩だったのか?そんな、まさかと思いながらも怪我の様子を確認する。幸いにも傷は急所を外れていてそれ自体が致命傷とはなり得なかったが、傷口が濡れたために高熱が出たようだ。熱が長く続くようなら体力が奪われ命に関わる。まずはこの熱を下げなければ。

(幸いにも?)

自分はこの男を殺そうとしていたのではなかったのか?自分の感情が起きた事態に追いつかない。まずは着ているものを全て脱がせ、濡れた体から水分を拭うと、次に血を拭き取っていく。

床に落ちた降災に足が引っ掛かる。これがあれば、この状態ならば、薛洋を殺すのは容易いだろう。しかし、暁星塵の頭にはその考えは全く浮かばなかった。

 

天よ、まだこの人を連れていくな。

 

闇夜の宴

少し経つと、薛洋は時々夜にも出かけるようになった。二人分の足音が聞こえるのは、おそらくは宋嵐を伴っているのだろう。陰虎符で操られる傀儡となった宋嵐を使って、薛洋が一体どのような悪事を働いているのか、それを考えると恐ろしくもあった。しかし、それを咎めることもできなかった。一度だけ
「どこへ行っているのですか?」
と尋ねると、あっさりとひとこと
「夜狩」
とだけ返事があった。そして夜中か明け方に帰ってくるときは大抵、血の匂いをさせていた。
目を失ってからの暁星塵は、聴覚や嗅覚が敏感になった。生きていた人間と凶屍と獣とは、血の匂いで区別がつく。残念ながら、活屍と凶屍の区別までは未だにできなかったが。

そして薛洋が帰ってきた時の血の匂いは、ほとんどが凶屍の匂いだった。やはりどこかで無辜の人たちを活屍として殺しているのだろう。可哀想な子琛。誰よりも高潔なかの傲雪淩霜が、今や傀儡として薛洋の楽しみのための悪行へ加担させられているのだ。おそらくは薛洋のこと、自分では手を下さずに全てを彼と彼の拂雪にやらせているのだろう。
それも全て自分のせいだと思うと、いたたまれなさに胸が痛むと同時に、なお一層薛洋への憎しみが募る。

そもそも暁星塵は、他人に殺意など抱いたことはなかった。かつて櫟陽常氏の件で薛洋を捕らえた時でさえ、彼が相応の罰を受けるべきだとは思ったが、それは暁星塵自身の殺意ではなかった。今、自分の中にある感情も、憎しみではあっても殺意ではない。彼を亡き者としなければならない。その気持ちはとても強いものの、明確な殺意を抱くには至らない自分には、なにか人として足りないものがあるのかもしれないと思うようになっていた。

 

その夜も随分と遅くに薛洋が宋子琛と共に帰ってきた。眠りの浅くなっていた暁星塵は、薛洋の戻りをその血の匂いで感じていたが、寝たふりをしながらじっと耳を澄ませていた。薛洋は身体についた血を拭うと夜着に着替え、そのまま寝台へ入るかと思ったが、寝台の枕元に腰かけたと思ったら唇になにかが触れた。それから手を握り、すこし指を絡めてから、背を向けて寝台に横になった。
(手が荒れている?)

以前まだ彼が薛洋だと知る前に、爪切りをねだられたことがある。
「私は見えないのだから、指を傷つけるかもしれませんよ?」
と答えたのだが、
道長に切ってもらいたいんだ」
とわがままを言ったので、しかたのない人ですねえと笑いながら爪を切ってあげた。思えばその時に右手しか切らせなかったことで彼が薛洋だと気が付くべきだったのだけれども、今更それを考えてももう全てが遅いのだ。
彼の指はその器用さを表すように細く長く、そして少しだけ節ばっていたが、手荒れやささくれは全くなかったはずだ。それが今はなぜこんなに荒れた手をしているのだろう?
そんなことを考えていると、薛洋は暁星塵が目を覚まさないように控えめに脚を絡め、なるべく背中がたくさん触れ合うような体勢となり、自分を慰め始めた。髪が少し引っ張られるような感じがしたあと、やはり小声で
「星塵…」
道長…」
と名を呼びながらどんどんと息を荒げていく。暁星塵は混乱していた。なぜ彼はこんなにも甘やかに私の名を呼ぶのだろう。私を憎むからこそあのような酷い仕打ちをしたのではなかったのか。
やがて放出の時が訪れ、呼吸を整えた薛洋はこの前と同じように寝台から下りて後始末をすると、水を一口飲み、それから始める前にしたように枕元に腰かけて唇を重ねてきた。また頬に暖かいしずくが落ちる。おそらくは夜着の袖をそっと頬にあてがい落ちたしずくを吸わせると、元の場所に戻って、
「お休み、道長
とほとんど聞こえないくらいの小さな声で呟き、そのまま眠りに落ちていったようだった。

 

浅い眠り

薛洋は朝餉のあとすぐ出かけて、夕方遅くなるまで帰ってこない、そんな日が続いた。もともと小食の暁星塵は特に昼時に腹を空かせることもなかったが、寝台のそばにはいつもいくつかのお焼きと水、時にはみかんや飴が置かれていた。そしてそれに口をつけようとつけまいと、翌日にはまた新しいお焼きが準備されていた。

薛洋から暁星塵へは朝餉と夕餉の報せ、暁星塵から薛洋へは「厠へ行かせてほしい」、それ以外には言葉を交わすこともなくなっていた。

ほんのすこし前まで、たくさんのことを二人は話していた。食事の時、買い物から帰った時、この少年と交わす言葉は暖かいものだと思っていた。宋子琛という唯一の知己を自らの過ちで失い、光も失った自分にとって、人と触れ合う楽しさを教えてくれた阿箐と少年は、初めてできた家族のようなものだった。それらの全てが偽りの上に成り立っていたのだと思うと、今更ながら自分の愚かさを思い知らされる。

目の見えない自分が霜華を取り返したとして果たしてどれだけ薛洋と闘えるかはわからなかった。長い間欺き続けたように彼はとても頭がよく狡猾だ。剣の腕も邪道ではあるがそれなり以上に立つ上に、かの夷陵老祖には及ばぬまでも邪術にも通じている。おそらく今のままではよいようにもてあそばれた上で、悪くすればさらに罪を重ねさせられかねない。
であるならばできる限り自分も注意深く、彼の些細な変化にも敏感でなければならない。油断させるためにも少しずつでも会話をしよう。疑われない程度に少しずつ。

夕方、いつもより少し遅い時間に帰ってきた薛洋に
「お帰りなさい。今日も遅いのですね」
と声をかけると、突然話しかけてきた暁星塵を訝しむ様子ながら
「ただいま道長。鶏の焼いたのをもらったから一緒に食べよう」
とこころなしか明るい声で返事が返ってきた。
「で、どうしたんだ?道長のほうから話しかけてくるなんて」
「ずっと一人だから退屈なのです」
「俺みたいなのでもいた方がマシってことか」
「そんなところです」
それから二人で夕餉をとった。

昼の間どこへ行っていたのか、薛洋が自分から話すことはなかった。もらったと称する鶏の焼いたものもおそらくはどこかから脅し取ってきたものなのだろう。彼が悪事で得たものを口に入れるのは非常に剛腹であったが、少しも食べないと無理に食べさせられることになるため、ほんの少しだけ口をつけた。会話も弾みようはなく最低限。
それから寝台で背中合わせに横になった。

「お休み道長
薛洋はそう言って返事を待ったが、暁星塵は言葉を返さなかった。

 

 

少しうとうとしていた深夜、名前を呼ばれたような気がして目を覚ましたが、応える気になれずに寝たふりを続けていた。床に就いた時に比べて、背中が密着しているように感じた。薛洋は息を荒くしている。
(ああ、またか)
若い彼は自分を慰めているのだろう。暁星塵はその手の欲求がほとんどないため自分ではすることがないが、一般に健康な男性がそういうことをするのは知ってはいたし、以前も彼がそのようなことをしているのに何度か気付いたことはある。最初は気分が悪いのかと思って心配して声をかけたこともあったが、気まずそうな彼の態度から、見て見ぬふりをするのが正しい対応なのだと悟った。
その時も見て見ぬふりをしていたのだが、時々彼の口から自分の名が発せられていることに不愉快さを感じていた。
薛洋の荒い呼吸は一層激しくなったかと思うと一瞬止まり、その後は呼吸を鎮めようとしているようだった。おそらく放出したのだろう。それからのろのろと立ち上がってなにやらガサゴソとした後、なぜか暁星塵の唇に突然暖かいものが触れた。驚いたがなるべく気づかれないように寝たふりを続けていると、頬に水滴が何粒が落ちたのを感じた。
(泣いている?)
いつまでも離れていかない唇を離すために、寝返りをうつ。薛洋は慌てて顔を離すと、元寝ていた場所へ戻り、寝付いた時と同じように背中合わせに横になった。肩の震えが伝わってくる。
「畜生、畜生…」
やっと聞き取れるくらいの小さい声で繰り返しつぶやいている薛洋は、まるですすり泣いているように暁星塵には感じられた。この男でも人知れず泣く事があるのか、と思った。何を悲しむことがあるのだろう?子琛を殺して傀儡とし、私には死ぬことも許さずに生き地獄を味わわせて、それでもなにかまだ不満があるのだろうか。

やがて薛洋の呼吸が寝息に代わった。暁星塵は目がさえてしまって眠れなかった。

ひとつだけの生きる理由

暁星塵は霜華を拾い上げ、自らの命を絶とうとした。

が、手の届くところに霜華はなかった。ならばと舌を噛み切ろうとするも、猿轡をかまされてしまう。
「悪いな暁星塵。あんたを死なせるわけにいかないんだ」
薛洋の声が聞こえる。それから鈍い痛みを首に感じて、暁星塵の意識が途絶えた。

意識が戻った時、寝台の上に寝かされていた。両手は前で縛り合わされ、足は寝台にくくりつけられていた。
「気がついたか道長。喉乾いただろ?3日も目を覚まさないから」
薛洋はそういうと猿轡を外して、水を飲ませようとする。歯を食いしばって抵抗する暁星塵に対して、鼻を摘んで口を開かせ、口移しで水を飲ませてきた。無理やり水を飲みこまされて咳き込むと背中をさする。

「私にまだ利用価値があると思っているのですか?」
「死なれたら困る、とは思っている。まだ舌噛もうとするんなら、また猿轡かませないとならないけど、あんたにそんな手荒なことはしたくないんだ」
「そんなに私を苦しませたいのですか?私が憎いのならば殺せばよいでしょう」
「どうしても殺させたいのならば、宋嵐にやらせることになるけど、それでいいのか?」
「……!」

子琛にまで私と同じ思いをさせようというのか、この悪魔は。怒りに身体が震える。命を絶つ前に、間違って殺めてしまった子琛や無辜の人たちの仇をとらなければならない。暁星塵はそう考えて、とりあえず薛洋を油断させるために従うことにした。

「わかりました。ならばこの縛めを解いてください」
「それはだめだ。あんなにはここに居てもらわないと。飯もちゃんと食ってもらう。餓死しようとするなら無理やり食わせることになるから、無駄に抵抗しないでほしい」
「……しかたがないですね」

その日の食事は暁星塵の好物ばかりが並んだが、薛洋のご機嫌とりのように思え、不愉快で味がわからなかった。阿箐はうまく逃げたのだろう、食事にも姿を見せることはなかった。そしてそれ以上ひとこともしゃべらぬままその日は終わった。

ひとつしかない寝台で並んで眠る。そのことがこんなにもつらいと思ったのは初めてだった。どうせなら何も知らないまま死にたかった。そう思うと惨めさと悔しさに涙がこぼれる。絶望で真っ黒に塗りつぶされた心に唯一残された生きる理由は「薛洋を亡き者にする」ただそれだけだった。

 

 

次の日、薛洋は朝餉を済ませるとすぐに出かけていった。暁星塵は縛めを解かれないまま、寝台の上で一人で考え事をしていた。

一体どこで間違ったのだろう。子琛は自分と出会いさえしなければこんな目に遭うこともなかった。山を下りたのは世の中の苦しむ人を助けたかったからなのに。世俗に疎い自分はただ自分の正義のみを信じ、その結果強い恨みを買って子琛から一族と目を奪ってしまった。失った目の代わりに我が目を差し出す程度では到底償いきれるものではない。そして、目を失ったことで霜華を過信し、無辜の人々を凶屍と誤認して幾人も殺めてしまった
全てはこの悪魔のような少年と関わってしまったから起きたこと。凶屍などより生きている人間の悪意のほうが恐ろしい。
どんなに考えても、やはり自分には、薛洋を殺して自分も死ぬ、その道しかないように思えた。

 

 

命名(R-18)

「魏嬰、君は、あの剣をどうするつもりなんだ?」

藍忘機が突然言い出した。「あの剣」とは、かつて雲深不知処から追い出されて放浪していた頃、ふと知り合って旅の伴となった美少年に身を守るための剣術を教える為に自分用に手に入れたものだった。とある城下の古道具屋で手に入れたその剣は買った値段の割にはまあまあ悪くはないものではあったが、かつての相棒であった随便とは較ぶべくもないものであった。少なくともその時点では。

それでも、今のまだ出来立ての金丹には相応しいといえなくもなかったし、剣を見てくれた藍曦臣は「たしかにこれは悪くない。それどころか案外と掘り出し物であるかも」と言うし、藍啓仁からも「剣はそれを持つ者が育てるものでもある」と言われ、当面はその剣を持つことにした。

 

「その剣を佩くのであれば、ふさわしい名前をつけるのが剣に対する礼儀だ」

と藍忘機はいうのだが、そもそもあの霊剣に「随便」と命名してしまう魏無羨には、それほど名前に対する拘りがない。名前をつけろと言われて、

「吃醋」

だの

「咸魚」

だの

奇葩

だのとろくなことを言わないので、その度に藍忘機から睨まれていた。

「んもうそんなにダメ出しするんならめんどくさいから藍湛が決めてよ」

と投げやりになった魏無羨に対し、普段は道侶に甘々な藍忘機もさすがに呆れて

「ちゃんとした名前を考えるまでは天子笑を飲むの禁止」

と言い出す。やむを得ず真面目に考えようとした魏無羨は、とりあえずあたりを散歩していい名前が浮かぶのを待とうと思った。

「魏嬰、どこへ?」

「とりあえず林檎ちゃんに相談してみる」

「ならば私も行く」

「あのなあ。雲深不知処の中歩く時くらい、ついてこなくても大丈夫だってば」

「私がついていきたいのだ」

目を離している間にいなくなりそうな気がして怖い、とは言わなかったが、そう思っていることを表情から読み取ってしまった魏無羨は、

「しかたないなあ俺の美人ちゃんはわがままで。いいよ一緒に行こう」

と答える。どっちがわがままなんだか、と少しだけ苦笑して、二人で兎たちと林檎ちゃんの棲家へと向かう。

林檎ちゃんはいつもどおり兎たちに囲まれて昼寝をしているところだった。何匹かの兎は二人が来たことに気付いて駆け寄ってくるが、林檎ちゃんは眠ったまま。魏無羨は足に上ろうとする兎を抱き上げると、

「なあ、『玄兎』っていうのはどうだ?」

と傍らの藍忘機に尋ねる。藍忘機も足元から兎を抱き上げながら

「名前としては悪くない。ただ、あの剣にはふさわしくない」

という。

しばらく前に魏無羨が結丹後初めてその剣を抜いた時、その剣芒にそこにいた藍氏の門弟たちが騒然となった。剣芒の色は、多くは青や白、水色など寒色が多いのだが、なんと虹色の光を放ったのだ。それは生まれたての金丹と同じく決して力強いものではなかったが、

「その剣はおそらくこれまでも人を救ってきた剣なのだろう。なにか暖かい思いのようなものをその剣芒に感じる」

その時に藍忘機がそんなことを言っていたのをふと思い出した。暖かみのある剣にはもっと温かみのある名を、藍忘機がふさわしくないといったのはそういう意味なのだろう。

「どういう謂れであの剣はあの古道具屋へたどり着いて俺の手元に来ることになったんだろうな。これも縁なのかもしれない」

君がそれを引き寄せているのだ、と心の中で思いながら、

「多分あれの元の持ち主は、俺と同じで名前に拘りがなかったんだろうな。でなければ、もともと呼ばれていた名前があるはずだと思うし」

確かに、剣を調べても名前の刻まれた形跡も、消された痕跡もなかった。とりあえず藍氏の剣籍簿には「(無名)」として記載されている。

「いっそ本当に『無名』で良くない?」

と魏無羨は提案したが、それでは「随便」の時と同じことになってしまう。なんとしても魏無羨に命名の責任というものを理解させたかった藍忘機は即座に却下した。

 

「ほんとはさ、俺、軟剣もいいなと思っていたんだ。『白衣』とかさ」

「君は『白衣』をどこで手に入れるつもりなんだ」

「そりゃ長明山で」

「君の身体はまだ雪山へ行けるほど丈夫ではない」

というと藍忘機は抱いていた兎を下ろし、魏無羨の腰に手を回して自分の身体に引き寄せた。

「ほら、こんなに冷えている」

両腕を背に回して強く抱きしめると、魏無羨はちょっと拗ねたように

「お前は俺を甘やかしすぎだ、藍湛。せっかく結丹したのに、それじゃ鍛錬にならない」

という。藍忘機は

「君の霊力は君がずっと私の隣にいるために全て使えばいい。君を守るのは私がする」

と言って顔を覗き込む。他の人には冷たく硬い色に見える玻璃の瞳は、そこに映るものが魏無羨であるときには限りなく暖かく柔らかい。

「守られるばかりなのは嫌なんだけど」

となるべく藍忘機の機嫌を損ねないように魏無羨としてはめずらしくおずおずと口にすると

「君が隣にいることがどれほど私を強くしているか、まだわからない?」

といって、触れるだけの優しい口づけをしてきた。啄むように何度も触れてくる唇に魏無羨は

「藍湛の唇はあったかいな。もう寒くない」

と囁いてから、

「もっと熱いほうが好きだろ?」

と続け、そのあと片目をつぶって

「さすがにここでは挿れるのは勘弁な?」

と、衣の中へ右手を入れる。脈うつその部分が発する熱を確かめるように柔らかく握ると、藍忘機は

「私にも触れさせてくれ、君の熱に」

と魏無羨の衣の外側から立ち上がりかけたものに左手で触れ、そっと撫でながら

「直に、触れたい」

と珍しく許可を求めてくる。

「俺はお前のものなんだから好きにしていいっていつも言ってるだろ。お前に触れられて嫌なはずがない」

そう答えた魏無羨は、左腕を藍忘機の頸に回し少し背伸びをして唇を合わせる。藍忘機も右腕を魏無羨の腰に回して支えると口づけに応えながら、左手を衣の中へと差し入れ、直にそのものを握った。衣の外から触れた時より明らかに硬く大きくなったものからは力強い拍動が伝わってくる。

しばらくは互いのものを扱きつつ口づけを繰り返していたが、次第に息が荒く激しくなってきた藍忘機は

「魏嬰、どうしても我慢できない」

と呟き、右腕で魏無羨の左ひざを持ち上げるとそのまま木に押し付けた。

「お、おい藍湛、さすがにここでは」

と言う途中で唇は唇で塞がれ、陽物を濡らしている粘液が露わになった蕾の周りに塗りたくられる。まだ十分に解れたとは言い難かったが、既に藍忘機のものにも馴染んだその部分は軋みながらも受け入れていった。

「…っおうふ。腹ん中いっぱいだよ藍湛。ただでさえお前のは大きいのに、中に入ると倍くらい大きくなってるだろこれ」

「さすがに倍にはならない」

「挿れる時よりその後のほうがずっと大きいとか、お前の身体は本当に、…おい見掛け倒しの逆ってなんていうんだ?」

「能ある鷹は爪を隠す、だ」

「お前は爪なんか全然隠してないだろ」

「魏嬰、君以外は誰も知らないし、今後も君以外が知ることはない」

 

「お前は俺ん中に出すからいいとして、俺が出すとお前の衣が汚れるぞ藍湛」

「構わない」

「俺が構う」

「ならば、私の手の中に出しなさい」

そういうと腰の動きを速めつつ、魏無羨の先端を左の掌ですっぽりと包み込む。柔らかく擦られながら奥の一番いいところを突かれると、魏無羨は目を開けて居られず瞼を固く閉じて首を激しく左右に振りたて、

「もう、もう出るからっ。藍湛藍湛、一緒にいって」

と叫ぶ。藍忘機は仰け反った魏無羨の喉を甘噛みすると、掌に魏無羨の迸りを受け止めたのを確かめ、自分も一番奥に放った。

 

「あのなあ、百万回くらい言ってると思うけど、噛むなよ藍湛」

「百万回もは聞いていない。127回だ」

「それだけ聞けば十分だろ?」

「私のものだと確かめずにはいられない」

藍忘機は持ち上げていた道侶の左ひざを地面におろすと、はだけていた衣を直す。

やっと呼吸が落ち着いてきた魏無羨が瞼を開く。最初に目に飛び込んできたのは、虹色に輝く雲だった。

「うわあ藍湛、空、見て見ろよ。すごい綺麗だ」

ゆっくり振り返り空を見た藍忘機がつぶやく。

「…彩雲、か。吉祥だな」

「あ、それいただき。あの剣の名は『彩雲』にする」

 

 

 

 

 

 

 

 

蜂蜜酒

雲夢江氏の莲花坞は、その蓮の花で埋め尽くされる湖や露店で賑わう港が人目を引きがちであるが、実は裏山にも豊かな自然がある。この辺りでは珍しい照葉樹の林には小川が流れ、そこに棲む魚を狙って沢山の鳥たちが遊んでいる。そんな裏山はもちろん、まだ年若い門弟たちにとっては格好の遊び場であった。

江晚吟が宗主となってからだいぶ厳しくなったとはいえ、自然の豊かな中で駆け回れる環境は、他の大世家とは明らかに違う、大らかで解放的な家風を作り出している。

かつてここで育った魏无羡がその傑出した剣の資質にも関わらず詭道の開祖となったことで、おおらかな家風が悪様に言われることも少なくはなかったのだが、それも今は昔。

 

「思追、なにこれ?」

「これは雲夢江氏から届いた蜂蜜ですね。なんでも門弟の方が大きな蜂の巣を見つけたとかで、お裾分けだそうです」

「へえ。裏山の蜂の巣かあ。懐かしいなあ」

「魏先輩も蜂の巣探したりしたんですか?」

「うん。まだガキの頃、江澄と一緒によく裏山に入り込んでさ、木の、こうウロになってるところがあるだろ?そういうとこに蜂が出入りしてないか見るんだ。それでいっぱい出入りしてるようだったら、穴をこう広げてね。で、蜂が怒って出てくるから江澄が追い払おうとして刺されてさ。追い払わなければ刺されないのに、あいつ何度やっても刺されてたんだよなあ」

魏无羡の子どものころの話はどれも面白い。思追も景儀も目を輝かせて聞いている。

「ところで、これどうすんの?」

「薬に使ったり、後は料理やお菓子にも使わせていただくそうです」

「余らない?」

「魏先輩の分もこちらにありますよ。後で静室にお届けするつもりでした。でもなんかこちらの甕は少し軽いし、中身が薄いのか振ると音がしますね」

「あ、それはそれでいいの。さすが江澄、わかってるな」

おそらく中身は蜂蜜酒である。飲酒厳禁のこの雲深不知処に酒を送りつけてくるとか、江宗主もなかなかにいい度胸である。

蜂蜜酒を作るのに必要なのは蜂蜜と水だけである。後は空気中の菌が勝手に酒にしてくれる。姑蘇の水や気候でうまく作れるかどうかわからなかったので試してみたかったのだが、最初から酒で送られて来ればその必要もない。

 

雲夢の蜂蜜は蓮の香りがする。その蜂蜜から作られた蜂蜜酒ももちろん淡い蓮の香りである。色々なところで蜂蜜酒を飲んだが、魏无羡は育った土地のこの蜂蜜酒が一番美味しいと思っている。

早速静室に持ち帰ると、夜狩の報告書に目を通していた蓝忘机が顔を上げる。

「江澄から蜂蜜酒もらった」

蜂蜜酒?」

「莲花坞の裏山で取れた蜂蜜で作ったやつなんだ。懐かしいなあ。そんなに強くないから蓝湛も飲む?」

「まだ日が高い。君も、飲むのなら夕餉の時にしなさい」

「本当にお堅いんだからなあ。じゃあ匂いだけ」

と言って甕の蓋を開けて匂いを嗅ぐ。

「ああいい香り。蓝湛も匂いだけでも」

と無理やり鼻に近づけると、最初は避けようとしていた蓝忘机はふと気づいたように

「初めて会った頃の君の香りだ」

と目を細める。

「はあ?そんなの覚えてるのか」

「私が君のことで忘れたことなど一つもない」

「あのなあ、お前最初の頃俺のことすごくめんどくさいやつだと思ってたろ?」

「今でもめんどくさいとは思っている」

「ふーん。含光君はめんどくさいのが好き、と」

珍しくふふっと笑う蓝忘机の顔を見て、

「あ、認めたな蓝湛。だったらもっと面倒かけてやる」

と、甕を机に置き、両手で蓝忘机の耳を引っ張る。

「君の『面倒をかける』はそういう意味なのか?」

と呆れ顔の蓝忘机に向かって片目の下瞼を下に引っ張って舌を出す。すると蓝忘机はいきなり腕をとって胸元に引き込み、頭を抱き寄せて髪に顔を埋める。

「何だよ蓝湛、いきなり人の匂いを嗅ぐな」

「今の君は私の香の香りだ」

「当たり前だろ、一日中この部屋にいたらすっかりこの香りになるに決まってる」

「でも私の香りとは少し違う」

同じ香をつかっていても、人によって少しずつ香りが異なる。

「さっきわかった。君の香りは、蓮の香りだと」

不思議なことだと思った。少なくとも今のこの身体は莲花坞で育ったわけでもないし、蜂蜜酒をたくさん飲んだわけでもない。

「きっと君の魂魄が蓮の香りなのだろう」

魂魄に香りなんかあるかよ、と思ったものの、何より蓮は神秘的で綺麗な花なので、そう言われるのは悪くないなと思って魏无羡の顔が綻ぶ。

 

「ところで含光君」

「ん、どうした?」

「この前禁書室で見つけた本によると、とある国では結婚したばかりの夫婦が子作りのために蜂蜜酒を飲むって書いてあったんだけど、本当かなあ」

「君は試してみたいのか?」

「飲んで子ども産めるようになったら面白いかもな」

「流石にそれはない。それに、『子供が産める』ではなく『子作りに励む』だ」

「おい待て蓝湛、お前もあれ読んだの?」

「一応」

「何だ知ってたのかよ。つまんね」

「私は君の好きなものにそんな効用があると知れてとても嬉しいのだが?」

しれっと言われてしまうと返す言葉がない。

「わかったわかった。お前にこれ以上励まれてもこっちの身体が持たないからお前には飲ませない」

そう言って蜂蜜酒の入った甕を自分のものが置かれた一角ーー白紙の呪符や護符、試作中の謎の道具やそれを作るための小さな鑿や鑽などがごちゃごちゃと置かれているーーにおいた。

 

夕餉の後、魏无羡は蜂蜜酒の甕からちびちびと酒器に注いで飲み始めた。

「お前にはやらないからな」

と言ってまた舌を出す。やれやれという顔の蓝忘机は

「君に贈られたものだ。君の好きにすればいい」

と言って、座っている魏无羡の後ろに胡座をかくと、腰を掴んで胡座の中に引き上げ、

「私も、私のものについては私の好きにさせてもらう」

といきなり耳たぶに噛み付く。

「蓝湛、お前いきなりそれは反則だろう」

「嫌なのか?」

「そりゃ嫌ではない、けど、心の準備というものが。それに尻に忘機くんが当たってるんだけど」

「そんなにいい匂いをさせてる君が悪い」

 

30分後、背後からの乳首と耳への愛撫ですっかりトロトロにされた魏无羡が、

「もう許して含光君、早く挿れてよ」

と懇願する羽目になることをこの時の魏无羡はまだ知らない。