Another Words

突然創作を載せたり載せなかったりします。

ひとりきりの旅立ち

「忘机、本当にこれで良いのかい?彼にその、誤解されているように見えるんだが」

「仕方がないのです。魏婴の、あの自由さが損なわれていくよりはずっと、彼にとってもその方が望ましいことなのだと」

「しかし、それはお前自身の気持ちを偽ってはいないのか?」

「元々、彼がこの世に戻ってきただけでも望外のことであったと思うべきだったのです。それ以上を望むのはわがままが過ぎることだと」

「兄としてはお前にはもっと自分の感情に素直であって欲しいと思っているよ、忘机。彼が帰ってきてからのお前は見違えるように生きることに喜びを感じているようだったからね。何故今更それを捨てようなどと考えるのか、正直理解に苦しむよ。…まあ、忘机が自分で決めたことならば私が口出しすることではないのだが」

「ありがとうございます兄上」

蓝忘机は兄との会話を切り上げ、静室へと戻っていった。昨日までそこで待ってくれていた人は、今はもういない。部屋はとてつもなく広く、そしてあまりにも静かで、たった一人そこに取り残された蓝忘机は耐え難い心細さを感じていた。

魏婴、君は私を恨むだろうか?それとも…。

視界が涙でぼやける。泣くな。そう自分に言い聞かせると、残っていた仕事を片付けるために書机の前に座り、墨を摺りながら呼吸を整える。

 

突然雲深不知処から追い出されることとなった魏无羡は途方に暮れていた。

その日もいつも通り朝遅く目覚めたのだが、いつもなら朝の身支度を手伝うために戻ってきてくれる蓝忘机が、その日は随分待っても戻ってこず、昼餉時になってやっと戻ってきた、と思ったらやってきたのは蓝曦臣だった。

「あれ?泽芜君?どうしたんですか?蓝湛は?」

「ああ、忘机は、君の顔を見ると大事なことが言えなくなるから、と私から君に伝えてくれと頼まれたのだよ、魏公子」

ここ最近は家族同様の扱いで「无羡」と呼んでいた蓝曦臣の、改まった言葉遣いにただならぬものを感じた魏无羡は、居住まいを正して次の言葉を待った。

「忘机はこう望んでいる。君はここから離れるべきだと」

正直なところ、全く予想していなかったわけではなかった。ともすると外の出来事に意識が向いてそれに集中してしまいがちな自分の言動が、蓝忘机に不安を与えていることは知っていたし、その不安を宥めるために自分がいくつかのことを頭から追い出しているのを蓝忘机が負い目に感じていることにも気付いてはいたのだった。

「気にすることはないのにな、蓝湛も。これは俺が好きでそうしてることなのに」

そんなふうに考えて、あえて重大な問題では無いと思うようにしてきた魏无羡だったが、自分が考えていた以上に蓝忘机が苦しんでいたことを改めて知らされたことで、動揺した。

「それで、これを君に渡すようにと預かってきた。失礼とは思ったが、私からも少し、餞別を出させてもらった」

そして渡されたのは、あの財嚢だった。遠い昔绵绵からもらった香り袋。中には1年くらいは裕に暮らせるくらいの金子と、折れたりちぎれたりしないように綺麗な厚紙に挟まれた芍薬の押し花が入っていた。

「あの、蓝湛と話をさせてもらえませんか?」

「私もそう言ったんだよ。そういうことは一人で決めないで、二人で話し合いなさい、とね。だけれど忘机は、顔を見ると決心が鈍るから、会わずに行ってくれと。あれほど君を思い続けていた忘机が決めたことなんだ、魏公子、いや无羡、わかってあげて欲しい」

「…わかりました。俺は大丈夫です。蓝湛には、無理をしないように伝えてください」

魏无羡はそういうと、財嚢から押し花だけを取り出して懐にしまい、残りは財嚢ごと蓝曦臣に手渡し、

「これはお気持ちだけ戴きます。長い間お世話になりました」

と拱手して雲深不知処を後にした。

途方に暮れていても仕方ない、これからどこへ行こうか、しばらく行っていないところへ行ってみるか、そう思ってとりあえず歩を進めた。

最初の夜は町中で宿をとった。雲深不知処にいれば、あるいは蓝忘机と共にいれば、彼自身がお金を使うことはほとんど必要なかったので、特にそのことで困ったりはしなかったのだが、早速最初の晩から少し困ったことになった。

(やっぱりあれをもらっておいた方が良かったか?)

そんな後悔もしないではなかったが、それでも安宿を見つけ、食欲もあまりわかず簡単な酒肴とほんの少しの酒を口にしただけだったので、とりあえず懐の心配は先送りされた。困ったのはそれ以上に、蓝湛の不在だった。

それまでも蓝忘机が雲深不知処を留守にすることはあったし、そんな夜は一人静室で休んでいたのだが、帰宅した日には必ずいつも以上に蓝湛から求められ、疲れ果てて眠りに落ちるのが常だった。この先ずっと続く蓝湛の居ない夜に、自分は果たして慣れることができるのだろうか。

明日の朝目覚めたら、今日のことは全てが夢で、何事もなかったように静室で目覚め、蓝湛がいつものように起こしてくれるのでは…。そんなありもしない期待を消すこともできないまま、魏无羡は目を閉じた。

 

夕餉どき、蓝忘机はつい癖で酒器と天子笑を用意していた。そして内心で苦笑してからそれらを片付けようとした時、

「忘机、入るよ」

と声がした。蓝曦臣は弟がまたいつかのように、酒を飲んで自分を傷つけることを心配して様子を見にきたのだった。

「酒と酒器は、私が預かっておこうか?」

「大丈夫です。これは魏婴がここに居た証ですから」

「まあ、お前が大丈夫というのなら私からは何も言わないが。もし辛く感じるのならば、遠慮せずに言いなさい。一人で抱え込まないように」

「ありがとうございます兄上」

蓝曦臣にはどうしても弟が無理をしているようにしか見えなかったのだが、それ以上彼の心に踏み込むことも出来ず、あとは本人に任せるしかなかった。